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平野神社 [京都の神社]

平野神社 (官幣大社・二十二社) 京都府京都市北区平野宮本町1
御祭神 第一殿(今木皇大神)第二殿(久度大神)第三殿(古開大神)第四殿(比売大神)
奈良時代、平城宮田村後宮に祀られていた今木大神を794年、平安遷都と共に桓武天皇が現在の平野の地に御遷座され、後に久度、古開、比売大神が祀られました。臣籍降下(皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)で姓を受けた源氏、平氏、高階、清原、中原、大江、菅原、秋篠からは氏神(八姓の氏神)として崇敬され、また、延喜式によれば、全国で唯一の皇太子の御親祭が定められた神社です。
桜が有名で、平安時代より植樹され、現在60種400本の桜が参道左右に立っています。江戸時代には「平野の夜桜」として都を代表する桜の名所でした。また、多くの場所で平野の桜を原木としています。
桜花祭について
花山天皇が後胤繁栄を祈るため、平野神社で臨時の勅祭を行われたことが起源と言われています。
毎年4月10日に行われ、午前10時より桜花祭、午前11時に花山天皇陵に参拝し、午前12時に神幸列発輿祭が斎行され、午後1時に約200名の時代行列が氏子地域を巡行します。
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宇治神社・宇治上神社 [京都の神社]

宇治神社 (府社) 京都府宇治市宇治山田1
御祭神  莵道稚郎子
宇治上神社 (府社) 京都府宇治市宇治山田59
御祭神  中殿 応神天皇  左殿 莵道稚郎子  右殿 仁徳天皇
現在の宇治上神社・宇治神社を合わせて、平安時代には「宇治鎮守明神」「離宮明神」「離宮社」とも称され、二社一体の神社でした。宇治上神社は「上社」「本宮」、宇治神社は「下社」「若宮」と呼ばれていました。明治に入って、この二社は分離し、双方とも府社の格付けを与えられています。
平安時代、藤原氏によってこの宇治の地に平等院ができると、その鎮守社として、「離宮社」も民の崇敬を集めるようになり、賑わいを極めました。
両社の御祭神である莵道稚郎子は応神天皇の末の皇子。父である応神天皇より皇太子として皇位を継承される身でしたが、応神天皇崩御後、儀を重んじ、長兄である大鷦鷯尊(オオサザキノミコト:後の仁徳天皇)が皇位を継ぐべきであると兄に位を譲り、自らは宇治に離宮を建てられ退かれました。兄の大鷦鷯尊も先帝の定めたところと王位継承を固辞し三年が経ちました。その間、人民も惑い、天下が乱れていく様を見て、莵道稚郎子は自らの命を絶って、兄を皇位につかせました。
この報を聞き、兄は難波より駆けつけ、莵道稚郎子を篤く葬り、この離宮に社を創建しました。これが宇治上神社・宇治神社の起こりです。
宇治上神社の本殿は国宝に指定されていますが、建築年代は輪年代測定法により、1060年と判定されており、現存する神社の中では日本最古の建造物となっています。また、拝殿は1215年の建築とされていますが、平安時代の住宅建築の様式をよく伝えた造りとなっており、平安時代の住居の遺構が現存しない中、貴重な資料となっています。
宇治上神社は「古都京都の文化財」の一つとして、ユネスコの世界遺産に登録されています。
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石清水八幡宮 [京都の神社]

石清水八幡宮 (官幣大社・二十二社) 京都府八幡市八幡高坊30
御祭神  中御前 誉田別尊  西御前 比咩大神  東御前 息長帯比賣命
貞観元年(859年)、大安寺の僧行基が宇佐神宮にて神託を受け、翌年、清和天皇がこの男山の地に宇佐八幡宮を勧請され、社殿を創建しました。「石清水」の社名は男山に既に鎮座していた石清水山寺(現:摂社石清水社)に由ると言われています。
京都の南西の裏鬼門に位置することから王城守護の神、王権・水運の神として、天皇より篤く崇敬されていました。中世以降は勧請元の宇佐神宮に代わって、伊勢神宮と並び、ニ所宗廟の一つに数えられており、また、清和源氏の足利氏、徳川氏、今川氏、武田氏などの戦国武将からも氏神として崇められていました。
幕末までは神仏習合の宮寺として「石清水八幡宮護国寺」と称していましたが、明治政府の神仏分離により、「八幡大神」に神号を改め、その後、1918年に現在の「石清水八幡宮」の社名となりました。
例祭について
清和天皇の863年、八幡大神様が男山の裾を流れる放生川のほとりで、生ける魚鳥を放ち、平和と幸福を願う祭儀として、「石清水祭」が始まったと言われています。以前は「石清水放生会」と称していました。
現行の「石清水祭」は毎年9月15日に開催され、葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の一つに数えられています。
15日の午前2時に山上、御本殿にて御鳳輦(ゴホウレン:神輿)三基に三座の神霊を奉遷する儀式より始まり、約500名のお供とともに山麓へ下り、勅使以下の奉迎を受け頓宮に入御、次いで献饌・供花・奉幣・牽馬など古儀による奉幣祭がおこなわれます。その後、放生川にて魚鳥を放つ放生行事が執り行われ、同日夕刻、御鳳輦は山上に還幸になります。
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八坂神社 [京都の神社]

八坂神社 (官幣大社・二十二社) 京都府京都市東山区祇園町北側625番地
御祭神  素戔嗚尊 
創祀については諸説ありますが、斉明天皇二年(656年)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるといわれています。また、一説には貞観十八年(876年)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいわれています。
元慶元年(877年)疫病が流行し、各社に祈り奉幣が行われましたが、一向に治まりませんでした。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止みました。これが祇園社の発展の契機となり、僅か二年後の元慶三年には陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、また同地の材木商人360人は神人に補せられ、経済的基盤が早くも確立しました。
明治以降、社名、御祭神も大きく変わっています。明治以前の主祭神は、中御座:牛頭天王 (ごずてんのう)、東御座:八王子 (はちおうじ)、西御座:頗梨采女 (はりさいにょ)でした。牛頭天王は素戔嗚尊と同一神とされていますが、そもそも起源不詳の習合神で祇園精舎(釈迦が説法をおこなったインドの寺院)を守護する神でした。牛頭天王を主祭神とする神社であったことから、明治以前は「祇園社」と呼ばれていました。
祇園祭について
祇園祭は貞観年中、京の都に疫病が流行したとき、勅を奉じて神泉苑に鉾を立てて祇園の神を迎えて祭り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈ったのに由来します。7月の一か月間、様々な祭儀がおこなわれますが、山鉾を飾り、祇園囃子が鳴り響く、宵山及び山鉾巡行が祭りのメインとなっており、多くの観光客で賑わいをみせます。
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賀茂御祖神社(下鴨神社) [京都の神社]

賀茂御祖神社(下鴨神社) (官幣大社・二十二社) 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
御祭神  西殿 賀茂建角身命  東殿 玉依媛命 
西殿の御祭神の賀茂建角身命は、天地開闢で世界が初めて生まれた時に高天原に出現した造化の三神の一、神魂命(カミムスビノミコト)の孫と言われています。神武東征の際は、高木神・天照大神の命を受けて、大和の葛城山にて八咫烏に化身して神武天皇を先導しました。この事から、導きの神、勝利の神、方除、厄除けなどに御神徳を著しています。また、農耕を広め民生の安定にもつとめられ世界平和、五穀豊穣、殖産興業にも御利益があります。
東殿の御祭神の玉依媛命は賀茂建角身命の御子神。上賀茂神社の御祭神である賀茂別雷大神の母。子育ての神として知られ、縁結び、安産、育児等に御神徳を発揚せられています。
下鴨神社がまつられた時期は定かではありませんが、崇神天皇の7年に神社の修造がおこなわれたという記述もあり、少なくともそれ以前から祭ら得ていたと思われます。特に平安時代以降は六十余箇所の荘園、御厨が寄進され、また、嵯峨天皇以降は伊勢神宮の例にならって「斎院」を設置し、未婚の皇女を「斎王」として祭祀に奉仕せしめるなど、上賀茂神社と共に破格の扱いを受けていました。
式年遷宮について
長元9年(1036年)を第一回として21年毎の式年遷宮の制度が確立し、その後、30年、50年と期間が開くことがあったものも制度は続き、現在に至っています。
本来の式年遷宮は御神体を除くすべての建物を新しくすることですが、賀茂社においては21年毎に痛んだところを修繕するという形で続いています。
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賀茂別雷神社(上賀茂神社) [京都の神社]

賀茂別雷神社(上賀茂神社) (官幣大社・二十二社) 京都府京都市北区上賀茂本山339
御祭神  賀茂別雷大神 
御祭神の賀茂別雷大神は、雷の御神威により、厄を祓いあらゆる災難を除く厄除明神、落電除、電気産業の守護神として知られ、また、都が京に遷されて以来、皇城鎮護の神、鬼門の守り神、総地主の神として崇められています。
「山城国風土記」によれば、賀茂建角身命の娘の玉依姫が鴨川で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。それを持ち帰って寝床に置いたところ玉依姫が懐妊し、賀茂別雷大神が生まれたとされています。
社殿の造営は天武天皇678年。本殿御鎮座以降も広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代に及んでおり、特に嵯峨天皇以降は伊勢神宮の例にならって「斎院」を設置し、未婚の皇女を「斎王」として祭祀に奉仕せしめるなど、破格の扱いを受けていました。「斎王」は不浄・仏事を厳しく避ける生活をしながら、賀茂社の祭りのときのみ参向し神事に奉仕されました。この姿が、現在の葵祭に伝わっています。
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伏見稲荷大社 [京都の神社]

伏見稲荷大社 (官幣大社・二十二社) 京都府京都市伏見区深草藪之内町68
御祭神
 下社(中央座)宇迦之御魂大神  中社(北座)佐田彦大神  上社(南座)大宮能売大神
伏見稲荷大社の起源については、山城国風土記に「秦伊呂具秦公が的にして射た餅が白鳥と化して飛び立ち、その留った山の峰に“稲”が生じたことから、イナリという社名になった」とあり、また稲荷社禰宜祝等甲状には「この神は、和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐し、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた」とあります。
さらに社記(十五箇條口授伝之和解)には「元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者“伊呂具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た」と伝えています。このように、秦氏によって和銅4年(711年)に御鎮座されたと伝承されてきました。
秦氏は主に太秦の地を本拠とし、松尾大社の創建にも関わっていますが、それが分家し、深草の地でも氏族を増やしてきました。その間に賀茂社を奉祀していた賀茂氏族と姻戚関係ができ、稲荷大社の創建にあたった秦伊呂具は賀茂氏族の子孫と自称をしています。
そして、それから約100年後、秦中家の代、東寺を造るにあたって稲荷山の材木を使ったところ淳和天皇の健康がすぐれなくなり、稲荷大社に内舎人の大中臣雄良を遣わし、異例の従五位下の神階を授け、神社の格が上がりました。
神社の創建の時期は定かではありませんが、延喜8年(908年)、藤原時平によって初めて3個社(下ノ社・中ノ社・上ノ社)の社殿が造られました。また、明応8年(1499年)、田中社、四之大神を加え、五社が一字相殿となりました。
稲荷大神は、元々全ての食物、蚕桑を司る神であったが、工業・商業の発展に連れ、殖産興業神、商業神としても崇められるようになりました。現在全国で約3万の稲荷社があり、伏見稲荷大社はその総本宮となっています。
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伏見稲荷大社.jpg伏見稲荷大社 奥社.jpg伏見稲荷大社 稲荷山.jpg
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