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伊豆山神社 [静岡の神社]

伊豆山神社   (国幣小社)  静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1
御祭神   天忍穂耳尊 拷幡千千姫尊 瓊瓊杵尊
伊豆山神社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されていませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝えられています。
社伝によると当社は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。十六代仁徳天皇が勅願所とされてから、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられています。
平冶の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで 驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に鎌倉、室町期を通じて、多数の社領を各地に所有していたことが南北朝時代の文章「寺領知行地注文」に記されています。
戦国時代には、小田原の北条氏(北条早雲、北条氏綱、北条氏康)により厚く庇護されていましたが、そのために豊臣秀吉の小田原征伐で一山残らず焼打ちにあい、焼失してしまいました。徳川の治下に及んで、焼失した伊豆大権現は再建復興され、文禄三年伊豆国葛見郡のうち二百石を寄進し、次いで慶長十四年関ヶ原の合戦で大勝を収めたお礼として更に百石、併せて三百石の朱印領を寄進しました。
昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出されています。(伊豆山神社HPより抜粋引用)
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静岡浅間神社 [静岡の神社]

静岡浅間神社 (国幣小社・駿河国総社)  静岡県葵区宮ケ崎町102番地1
御祭神  大己貴命(神部神社) 木花之佐久夜毘売神(浅間神社) 大歳御祖命(大歳御祖神社)
静岡浅間神社は、神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社の総称です。
神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となっています。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社と言われています。
浅間神社は延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、以来、富士新宮として国司の尊崇を受けています。
大歳御祖神社は応神天皇4年(273年)、今から1700年ほど前に古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記される静岡市の地主神です。
静岡浅間神社の社殿は火災によって何度か焼失しており、現在の社殿は文化元年(1804年)から60年余の歳月の間に造営されたもので、当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されました。
この造営は徳川幕府直営工事として行われ、神社所蔵の古文書によれば、寛永年中の造営に携わった華村(花村)家をはじめ大工や塗師方の子孫、また全国より優れた職人が集められました。特に彫刻には信州諏訪の立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜っています。また、寛永より当社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など静岡市の特産工業へと発展しました。また模型はその後プラモデル産業へと発展し、静岡は全国一のプラモデル産地となっています。
境内は4万5千平方メートル。広壮華麗な社殿群はいずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので高さ25メートルあり、殿内は132畳敷きの広さがあります。これらの社殿のうち26棟が国の重要文化財に指定されています。(静岡浅間神社HPより抜粋引用)
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久能山東照宮 [静岡の神社]

久能山東照宮  (別格官幣社) 静岡県静岡市駿河区根古屋390
御祭神  徳川家康公  相殿  豊臣秀吉公 織田信長公
御祭神である徳川家康公はご幼少のころよりあらゆる艱難辛苦を跳ね除け征夷大将軍に就かれました。晩年を駿府(現在の静岡市)で過ごされた家康公は、元和2年(1616年)4月17日に75年の生涯を大成されました。
亡くなる直前、家康公は家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託されました。二代将軍徳川秀忠公は直ちにそれを実行し、また久能山に家康公を祀る神社を造営することを発令しました。これが久能山東照宮の始まりです。
大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で社殿が建てられました。当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式は、日光東照宮を始めとする全国の東照宮建築のひな形とされました。社殿は平成22年に国宝に指定されています。(久能山東照宮HPより抜粋引用)
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富士山本宮浅間大社 [静岡の神社]

富士山本宮浅間大社 (官幣大社) 静岡県富士宮市宮町1-1
御祭神  木花之佐久夜毘売神
御祭神の木花之佐久夜毘売神は、大山積神の娘で天孫邇邇芸命の妻となられた神です。
富士山本宮浅間大社の創建は、孝謙天皇の時代に富士山が噴火し、国中が荒れたため、垂仁天皇三年(紀元前27年)浅間大神を山足の地にお祀りし富士山の山霊を鎮めたのが始まりと言われています。景行天皇四〇年(110年)日本武尊が浅間大神を山宮(現 山宮浅間神社:富士宮市山宮740)に遷し、更に平城天皇の大同元年(806年)坂上田村麻呂が現在の大宮の地に遷し、壮大な社殿を作りました。この大宮の地には富知神社が鎮座していましたが、土地を譲り、富知神社は現在の地(富士宮市朝日町12-4)に遷っています。
浅間大社は以後も朝廷、武将より篤い崇敬を受け、全国千三百余社ある浅間神社の総本宮として称えられています。
本殿は徳川家康が慶長九年(1604年)に造営されたもので、三間社流造の二階を持つ檜皮葺の建物で他に類のない珍しい形になっており、国の重要文化財に指定されています。
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三嶋大社 [静岡の神社]

三嶋大社 (官幣大社) 静岡県三島市大宮町2-1-5
御祭神  三嶋大神(大山津見神と積羽八重事代主神の二柱)
大山津見神は伊弉諾尊の御子神であり、山の神、林業、農業などの殖産の神として知られています。また、邇邇芸命の妻となった木花之佐久夜毘売神の父神でもあります。積羽八重事代主神は大国主命の御子神で、俗に恵比寿様と讃えられる商売繁盛の神です。
この二柱を奉斎し、三嶋大神と称しています。
御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。平安時代中期延喜式では名神神社に列格され、社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。
中世以降、多くの武士より崇敬され、特に源頼朝からは社領神宝を寄せられています。この神宝の中には、頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」があります。
社殿の創建は古く、鎌倉時代には度々の修復の記録が残っています。寛永十一年(1634年)には徳川家光公が大規模造営をおこないましたが、その後、嘉永七年(1854年)東海地震により罹災しました。安政から慶応にかけて再建をおこない、慶応二年(1866年)に落成しました。本殿、幣殿、拝殿は国の重要文化財に指定されています。
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