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関東三天神(湯島天満宮・亀戸天満宮・谷保天満宮) [東京の神社]

湯島天満宮   (府社)  東京都文京区湯島3-30-1
御祭神   天之手力雄命、菅原道真
湯島天神は 雄略天皇二年(458年)一月、天之手力雄命を奉斎し、勅命により創建されました。その後、正平十年(1355年)二月、郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀しました。文明十年(1478年)十月には、太田道灌が再建し、天正十八年(1590年)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進しました。
明治五年(1872年)十月には郷社に列し、ついで同十八年八月府社に昇格しました。
明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職にあたっていました。
社殿は、元禄十六年(1703年)の火災で全焼し、宝永元年(1704年)将軍綱吉公が金五百両を寄進しています。その後、明治十八年に改築されましたが、老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営されています。(湯島天満宮HPより抜粋引用)
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亀戸天満宮   (府社)  東京都江東区亀戸3丁目6番1号
御祭神   天満大神(菅原道真)、天善日命
正保三年(1646年)九州太宰府天満宮の神官であった菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩き、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々あった天神の小さなほこらにご神像をお祀りしました。
当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662年)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営みました。
古くはご本社にあたる九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていましたが、明治六年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和十一年に現在の亀戸天神社と正称されるようになりました。(亀戸天満宮HPより抜粋引用)
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谷保天満宮   (府社)  東京都国立市谷保5209
御祭神   菅原道真公・菅原道武公
昌泰四年、右大臣菅原道真公が筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられました。
延喜三年、父君薨去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが谷保天満宮の起りとされています。
天暦元年、京都北野天満宮造営の際に、当社の威霊を奉上され村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられました。建治三年、後宇多天皇の勅により藤原経朝書「天満宮」の扁額を納められています。その後、道武公の裔孫津戸三郎為守は源頼朝に仕え数々の武功を立てますが、養和元年十一月三日旧来の地(現国立府中インター付近)より神殿を現在の地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、社務六院を置き祀典を司りました。
明治十八年には府社に昇格しています。
東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称されています。(谷保天満宮HPより抜粋引用)
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富岡八幡宮・大宮八幡宮・井草八幡宮 [東京の神社]

富岡八幡宮   (府社)  東京都江東区富岡1-20-3
御祭神   応神天皇(誉田別命) 外8柱
富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。
また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。(富岡八幡宮HPより抜粋引用)
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大宮八幡宮   (府社)  東京都杉並区大宮2-3-1
御祭神   応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053〜57)に、奥州に乱(前九年の役)が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起であります。
また、その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。
かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、昭和44年に境内の北端につづく旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡や族長の住居跡が発掘され、この地は太古からの聖域であったことが判明致しております。
今や大東京の重心「東京のへそ」として、神々の記憶と数々の日本の歴史へと誘う胎内回帰の出来る神秘的な場所とされております。(大宮八幡宮HPより抜粋引用)
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井草八幡宮   (郷社)  東京都杉並区善福寺1丁目33-1
御祭神   八幡大神(応神天皇)
井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮とも称せられました。
善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。(現在は、二代目の松が植えられています)
源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められています。
明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修、境内の整備が行われ、都内でも有数の広さ(約一万坪)を誇り、現在は神社本庁別表神社に指定されています。(井草八幡宮HPより抜粋引用)
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神田神社 [東京の神社]

神田神社  (府社)  東京都千代田区外神田2-16-2
御祭神   大己貴命 少彦名命 平将門命
社伝によると、神田神社は天平二年(730年)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶二年(1309年)当社に奉祀しました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和二年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けました。
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。
大正十二年(1923年)、関東大震災により社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和九年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。昭和十年代後半より、第二次世界大戦の空襲により、当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。(神田明神HPより抜粋引用)
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日枝神社 [東京の神社]

日枝神社 (官幣大社)  東京都千代田区永田町2-10-5
御祭神   大山咋神
日枝神社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀ったことから始まり、さらに文明十年(1478年)太田道灌公が江戸の地を築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請しました。
やがて天正十八年(1590年)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、また江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されました。
二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀されました。
明暦三年(1657年)の大火で社殿炎上の災に遇いましたが、時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に充て、結構善美を尽くした権現造の社殿を造営・遷祀しました。
萬治二年造営の社殿は、江戸初期権現造の代表的建物として国宝に指定されていましたが、昭和二十年五月に戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し悉く烏有に帰しました。しかし、氏子崇敬者の奉仕により、昭和三十三年六月以降、本殿・神門・廻廊・参集殿が逐次完成、更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで行ない、山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。(日枝神社HPより抜粋引用)
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大國魂神社 [東京の神社]

大國魂神社  (官幣小社・武蔵国総社) 東京都府中市宮町3-1
御祭神   大國魂大神
御祭神の大國魂大神は素盞鳴尊の御子神で、土地を開拓し、人民に衣食住の道、医薬禁厭等の方法を教えるなどをし、この国土を経営されました。
当社の起源は、第十二代景行天皇四十一年五月五日大神の託宣に依って造られたとされています。出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造に任ぜられてから、代々の国造が奉仕してその祭務をおこなうようになり、孝徳天皇の時代に武蔵の国府をこの地に置くようになってからは、国司が奉仕して国内の祭務を総轄するようになりました。また、国司が国内社の奉幣巡拝、神事執行等の便により、国内諸神を当神社に配祀するようになり、これが即ち武蔵総社の起源となりました。
後に本殿の両側に国内著名の神、六所(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して六所宮とも称せられるようになりました。
鎌倉時代には、源頼朝が武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、その後、貞永元年に武蔵守資頼を奉行として社殿が修造されました。
また、天正十八年(1590年)、徳川家康が江戸へ入城してからは武蔵国の総社として、殊に崇敬の誠をつくされ、社領五百石を寄進し、社殿及びその他の造営をおこないました。
正保三年(1646年)、類焼により社殿は焼失しましたが、寛文七年(1667年)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至ります。
社殿は、三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであり、慶応年間に檜皮葺が銅葺に改められています。本殿は都文化財に指定されています。
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根津神社 [東京の神社]

根津神社  (府社)  東京都文京区根津1-28-9
御祭神   須佐之男命 大山咋命 誉田別命
根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建しています。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行ないました。
翌年(1706年)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されています。
明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社となっています。(根津神社HPより抜粋引用)
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明治神宮 [東京の神社]

明治神宮 (官幣大社) 東京都渋谷区代々木神園町1-1
御祭神  明治天皇 昭憲皇太后
明治神宮は、大正9年に創建されました。御祭神は明治天皇と昭憲皇太后です。
明治天皇は嘉永5年9月22日(新暦11月3日)、孝明天皇さまの皇子としてお生まれになり、慶応3年、孝明天皇が崩御され、明治天皇は御年僅か16歳(数え年)で皇位をお継ぎになられました。
ほどなく将軍徳川慶喜の大政奉還にともなって、同年12月王政復古の大号令を発せられ、翌4年(明治元年)3月14日、天皇は紫宸殿に天神地祇をお祭りになって、五箇條の国是をお誓いになり、施政の大方針を明らかにされました。そして同年9月には年号を明治と改められ、10月には東京遷都、12月御成婚、そして翌2年版籍奉還、4年の廃藩置県、5年の学制頒布その他鉄道、電信、電話の開通、太陽暦の採用など新政の施策が次々に進められました。
さらに明治22年には帝国憲法を発布せられ、翌23年には帝国議会の開設があり、また教育勅語も御下賜になりました。
明治45年7月30日、御年61歳をもって崩御されました。
明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后の両御祭神と特に縁の深い代々木の地に建てられましたが、昭和20年4月14日、大東亜戦争による空襲に見舞われ、創建当初の主要建物は焼失しました。昭和33年11月、国の内外から多くの浄財が寄せられ、神社建築の粋を集めて復興造営がなされ現在の社殿が完成しました。(明治神宮HPより抜粋引用)
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