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太宰府天満宮・竈門神社 [福岡の神社]

太宰府天満宮  (官幣中社)  福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
御祭神  菅原道真公
菅原道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになり、幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919)には醍醐天皇の勅命により立派なご社殿が時の左大臣藤原仲平によって建立されました。 この本殿は五間社流造で檜皮葺の屋根を備えた桃山時代の豪壮華麗な様式をよく伝えており、国の重要文化財に指定されています。
その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。(太宰府天満宮HPより抜粋引用)
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竈門神社  (官幣小社)  福岡県太宰府市内山883
御祭神  玉依姫命
天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰府政庁が置かれた際、鬼門にあたる竈門山(宝満山)では大宰府また国家鎮護のための祭祀がはじまりました。天武天皇二年(673年)には心蓮上人がこの山に籠って修行中に玉依姫命が現れ、朝廷によって上宮が建てられました。これが竈門神社の創建と言われています。延喜式には名神大社として記載されるなど格式が高い神社でした。
神体山の宝満山は、最澄や空海をはじめ、遣隋使や遣唐使など大陸へ渡る人々が航海の安全と、目標の達成のために登拝し、祈りを捧げた山として大切に守られてきました。中世以降は修験者による信仰が盛んになり、険しくも秀麗な宝満山の姿に多くの山伏が憧れ、厳しい修練を重ね、世の平安と人々の除災招福のための加持祈祷が行われました。
主祭神の玉依姫命は、魂(玉)と魂を引き寄せる・引き合わせる(依)という御神徳を慕われ、古くから「縁結びの神」として広く信仰されてきました。男女の「良縁」をはじめ、家族、友人、仕事、自然などとの良いご縁を結んでいただける神様として広く親しまれています。
また、竈門神社では、古くは、大宰府の鬼門除けとして、また、大陸へ渡る人々がこれから進む航海(道)の安全と事業の成功を祈願したことから「方除け」、「厄除」の信仰も盛んに行われてきました。現代においても、引越し、就職などの人生の節目を迎えた方々、あるいは仕事、事業において未来を切り拓こうと願う方々などが参拝に訪れ真摯な祈りが捧げられています。(竈門神社HP、御由緒より抜粋引用)
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志賀海神社 [福岡の神社]

志賀海神社  (官幣小社)  福岡県福岡市東区志賀島877
御祭神   綿津見三神(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
志賀島神社は、玄海灘に臨む交通の要所として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」とたたえられ、海の守護神として篤く信仰されています。
御祭神は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族によって奉斎されていました。
御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されています。
当社の創建は明らかではありませんが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていました。2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、あわせて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられています。
昔の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めていました。
社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元冦の役など国家の非常の際に嚇々たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(859年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(1927年)には官幣小社の処遇をうけています。(志賀海神社HPより抜粋引用)
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住吉神社 [福岡の神社]

住吉神社  (官幣小社・筑前国一宮)  福岡市博多区住吉3丁目1-51
御祭神   表筒男命 中筒男命 底筒男命 天照皇大神 神功皇后
住吉神社は底筒男神、中筒男神、表筒男神の住吉三神を祭神としています。御出現は、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原で禊祓をされたときにお生まれになったと「古事記」に記されています。相殿には天照皇大神、神功皇后を配祀し、これを併せて住吉五所大神とも呼ばれています。
住吉神社の歴史は千八百年以上前に遡り、全国に2,129社ある住吉神社の中で最初の神社とされています。古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されています。また、現在では、大阪の住吉大社、下関の住吉神社、そして当社が日本三大住吉と云われています。
住吉神社の社殿は「住吉造」といわれる神社建築史上最古の特殊な様式をとっています。柱・垂木・破風板は丹塗り、羽目板壁は白胡粉塗り。屋根は切妻の直線形、そして出入り口が直線型妻入式という特徴があり、国の重要文化財に指定されています。当社の社殿を改築・修理する御遷宮が25年ごとに行われています。(住吉神社HPより抜粋引用)
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筥崎宮 [福岡の神社]

筥崎宮 (官幣大社・筑前国一宮) 福岡県福岡市東区箱崎1-22-1
御祭神  応神天皇 神功皇后 玉依毘売神
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり、古録によれば、平安時代の中頃である延喜二十一年(西暦921年)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923年)筑前大分宮(穂波宮)より遷座したことになっています。
鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治十八年には官幣中社に、大正三年には官幣大社に列せられました。
醍醐天皇の延喜二十一年(921年)、大宰少弐藤原真材朝臣が神のお告げにより神殿を造営し、長徳元年(995年)、大宰大弐藤原有国が回廊を造営したと伝えられています。しかしその後、元寇の戦火、兵乱などにより幾度かの興廃がありました。現存する本殿、拝殿は天文十五年(1546年)大宰大弐大内義隆が建立したものです。
本殿は、九間社流造、漆塗、屋根は檜皮葺、左右には車寄せがあります。拝殿は切妻造、檜皮葺で、梁組が二重になっている素木のままの端正な建物です。
楼門は、文禄三年(1594年)筑前領主小早川隆景が建立、三間一戸入母屋造、檜皮葺、三手先組といわれる枡組によって支えられた、八十三坪余りの雄大な屋根を有した豪壮な建物です。「敵国降伏」の扁額を掲げていることから伏敵門とも呼ばれています。
本宮の鳥居は、御本殿近くより数えて一之鳥居、二之鳥居と呼ばれます。一之鳥居は慶長十四年(1609年)、藩主黒田長政が建立したとその銘にあります。この鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いています。笠木島木は一つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」と呼ばれています。 (筥崎宮HPより抜粋引用)
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香椎宮 [福岡の神社]

香椎宮 (官幣大社・勅祭社) 福岡県福岡市東区香椎4-16-1
御祭神  仲哀天皇 神功皇后  配祀 応神天皇 住吉大神
香椎宮は、仲哀天皇九年(200)、神功皇后自ら祠を建て、仲哀天皇の神霊をお祀りしたのが始まりです。次いで、神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(723)に皇后御自身の御神託により、朝廷が社殿の造営を進め、聖武天皇の神亀元年(724)に竣工したもので、この両宮を併せて香椎廟と称しました。戦後からは香椎宮と称しています。
御祭神である仲哀天皇は、熊襲の反乱を鎮めるべく、神功皇后共々この香椎の地(筑紫 橿日宮)におこしになられました(仲哀天皇八年:199年)。しかし、志なかば、仲哀天皇は、この香椎の地にて崩御されました。その後、神功皇后は、神のお告げを受けて、海を渡り新羅を平定され、凱旋後、仲哀天皇の御霊をしずめるべく、神功皇后自らお祀りされたのが、香椎宮の起源となります。
本殿は724年に建立され、1801年に福岡藩主黒田斉清により再建されたものです。入母屋造平入を基本に様々な建築様式が取り入れられたもの(香椎造)で、国の重要文化財になっています。 (香椎宮HPより抜粋引用)
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