SSブログ
四国の神社(1) 埼玉の神社(5) 千葉の神社(1) 茨城の神社(2) 奈良の神社(7) 滋賀の神社(5) 大阪の神社(4) 京都の神社(17) 愛知の神社(3) 兵庫の神社(2) 三重の神社(1) 静岡の神社(5) 東北の神社(2) 群馬の神社(1) 福岡の神社(5) 岡山の神社(1) 東京の神社(7) 栃木の神社(3) 神奈川の神社(4) 北海道の神社(1) 山口の神社(1) 石川の神社(2) 富山の神社(1) 長野の神社(2) 広島の神社(1) 島根の神社(6)
岡山の神社 ブログトップ

吉備津神社 [岡山の神社]

吉備津神社 (官幣中社・備中国一宮) 岡山県岡山市北区吉備津931
御祭神  大吉備津彦大神
主祭神の大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、また桃太郎伝説のモデルで知られています
その大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命等、一族の神々も合わせ祀っています。
大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命と言われました。
第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってきましたが、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数いました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することとなりました。すなはち、北陸道には大彦命、東海道には武渟別命、丹波には丹波道主命、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣されることとなりました。吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っています。
吉備津神社の創建時期は文献もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命という人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると云われております。
本殿は、建坪 78坪3強(約255m²)の大建築であり、京都の八坂神社につぐ大きさがあり、また出雲大社の約2倍以上の広さがあります。
白漆喰で築いた亀腹の上に北面して立つ一重の神殿で、入母屋の千鳥破風を前後に二つ並べ同じ高さの棟で結び桧皮で葺き、ひとつの大きな屋根にまとめた構造で、建築学上では「比翼入母屋造」と言い、全国で唯一の様式であるので、単に「吉備津造り」ともいいます。
本殿・拝殿は過去2回の火事によって焼失しましたが、現在の本殿・拝殿は今から約六百年前の室町時代、将軍足利義満の時代に約二十五年の歳月をかけて応永三十二年(1425年)に再建されました。それ以来、解体修理もなくその雄大な姿を現代に伝えており、国宝に指定されています。 (吉備津神社HPより抜粋引用)
DSCN8401.JPG
DSCN8419.JPG
DSCN8436.JPG
DSCN8437.JPG
吉備津神社.jpg
岡山の神社 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。