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御上神社 [滋賀の神社]

御上神社  (官幣中社)  滋賀県野洲市三上838
御祭神  天之御影命
御上神社の起源は、第七代孝霊天皇の六年六月十八日に御祭神天之御影神が三上山に降臨され、それから約千年の間、御上祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まる厳の磐境と定めて祀っており、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上祝がもちいつく天之御影神」と記されています。
奈良朝初期元正天皇の養老二年三月十五日(718年)に藤原不比等が勅命を拝し、榧木原と称された現在の鎮座地に造営して、御遷祀させられました。
以来朝野の尊崇極めて篤く、陽成天皇の御代(877年~884年)には正一位の神階を授けられ、併せて社殿の修営も行われました。次いで醍醐天皇(897年~930年)の延喜の制では、明神大社に列せられ月次・新嘗の官幣に預かり、更に円融天皇(969年~984年の)御代には当社を勅願所と定められました。
武家執政の世になっても、源頼朝を始め各武将も崇敬深く変わることなく、徳川幕府に至るまで、代々神領を寄進し、社殿の修営を行いました。
明治維新の神道復興の時運に際し、御社頭の整備が行われ、明治23年に本殿・拝殿・楼門が特別保護建造物に指定された機会に国庫補助を受けて解体修理の大事業が行われています。現在、本殿は国宝、拝殿・楼門は国の重要文化財に指定されています。
大正13年に県社から官幣中社に列格されています。(御上神社HPより抜粋引用)
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近江神宮 [滋賀の神社]

近江神宮  (官幣大社)  滋賀県大津市神宮町1番1号
御祭神   天智天皇
御祭神の天智天皇は、明治維新にいたる1200年の政治の基礎を作られた天皇で、奈良平安時代以来、歴代天皇の中でも特別の位置に置かれており、歴代天皇のご即位の宣命には、必ず天智天皇のことに触れる習わしが続いています。
その天智天皇を祀る神社の創建は明治に遡ります。天智天皇は近江に都(近江大津宮)をおかれたことから、滋賀県内では格別に天智天皇の崇敬が深く、まず明治28年、時の大津町長(当時はまだ町でした)が有志を募って、当時の滋賀郡滋賀村大字錦織字御所ノ内(現在の大津市錦織)の地に「志賀宮址碑」を建設しました。
ついで明治33年大津宮創立の最初の企画が始まり、41年大津市制施行10周年に際して、時の市長が大津宮跡に天智天皇奉祀神社の創立を熱望する旨を発表し、請願運動を開始しました。昭和に入り、昭和12年近江神宮奉賛会を組織、翌13年昭和天皇の御聴許をいただき近江神宮創立の旨を発表、同年6月10日の時の記念日の日に地鎮祭執行、延べ13万人にのぼる県民の勤労奉仕をいただいて工事は進められました。かくして昭和15年竣工の運びとなり、その年11月7日、勅使御参向のもとこの大津宮跡に御鎮座祭が厳粛に斎行されました。
境内地は約6万坪。社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築を代表する建物となっています。(近江神宮HPより抜粋引用)
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建部大社 [滋賀の神社]

建部大社 (官幣大社) 滋賀県大津市神領一丁目16-1
祭神  日本武尊
御祭神の日本武尊は景行天皇の皇子。16歳で熊襲を誅し、東夷を平定されるなど大和朝廷の勢力拡大に尽力され、32歳の時に伊勢にてお亡くなりになられました。
景行天皇の46年、神勅により御妃布多遅比売命が御子稲依別王と共に住んでいた神崎郡建部に尊の神霊を祀られました。その後、天武天皇白鳳4年(675年)に現在の瀬田の地に迂祀されています。歴代の天皇からの支持も厚く、一方、多くの武将からも崇拝されており、特に源頼朝は14歳の時に平家に敗れ伊豆に流される時に建部大社に寄り、源氏再興の祈願をしています。後に鎌倉幕府を興し祈願が叶った際には、幾多の神宝と神領を寄進しています。また、この事から、建部大社は出世開運、除災厄除、商売繁盛、医薬醸造の神として広く知れ渡ることになりました。
天平勝平7年(755年)に大己貴命が大神神社から勧請され、権殿に祀られています。
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多賀大社 [滋賀の神社]

多賀大社 (官幣大社) 滋賀県犬上郡多賀町多賀
祭神  伊邪那岐大神 伊邪那美大神
御祭神の伊邪那岐大神、伊邪那美大神は我が国の国土を造り、天照大神をはじめとする八百万の神々をお産みになられた神です。命を授けた神であることから、延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として、多くの人から古来より信仰を集めています。
鎌倉時代、僧重源は東大寺の再建にあたり、その任を全うすべく、多賀大社に延命の祈願をしたところ、虫食いで「莚」の字と描かれた柏の葉が落ちてきました。「莚」の字は「廿(二十の意味)」と「延」に分けられ、無事、20年の延命が叶い、東大寺再建をおこなうことができたという逸話があります。
また、豊臣秀吉においても大政所の病気に際し、「三か年、ならずんば二年、げにげにならずんば三十日でも」と延命の祈願文を寄せ、米一万石を寄進したという話が残っています。幸いにも大政所は治癒され、この一万石で今も残る「太閤橋」や「億書院庭園」が造営されています。
古事記によると、伊邪那岐大神は「淡海の多賀に坐すなり」という記述もあり、古事記の記載年から考慮すると多賀に鎮座されたのは少なくとも8世紀以前と見られます。多賀大社は八百万の創造の神である伊邪那岐大神が最後に選ばれた地ということもあり、特別な意味を持った場所となっています。
両大神は伊勢神宮に祀られている天照大神の父母でもあることから、「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」という俗揺もあり、特に中世から近世にかけては、伊勢神宮、熊野大社と共に参詣の多い場所でもありました。
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日吉大社 [滋賀の神社]

日吉大社 (官幣大社・二十二社) 滋賀県大津市坂本5丁目1-1
御祭神  大己貴神(西本宮) 大山咋神(東本宮)
東本宮の御祭神の大山咋神(オオヤマクイノカミ)は近江国の日枝山(後の比叡山)の地主神。日枝山から今の地に遷されたのは崇神天皇の7年と言われています。山岳宗教・神仏習合思想と結びつき、延暦寺ができてから天台宗及び延暦寺の結界を守る守護神にもなっていました。また、大山咋神を「山王」と称していたことから、日吉大社を「山王権現」と呼び、比叡山の僧兵が強訴のために日吉大社の神輿を担ぎだしていた歴史もあります。
現在、日吉大社は全国に3800余社ある日吉神社・日枝神社あるいは山王神社の総本社となっています。
西本宮の御祭神の大己貴神(オオナムチノカミ)は国譲りをおこなった大国主神と同神。天智天皇の7年に三輪山より当地に招かれたと禰宜口伝抄にあります。
境内には東西本宮を中心にして各祭神の格式によって「上」「中」「下」の三段階に区分し、それぞれ七社、「山王二十一社」と称しています。
上七社 西本宮、東本宮、宇佐宮、牛尾神社、白山姫神社、樹下神社、三宮神社
中七社 大物忌神社、牛御子社、新物忌神社、八柱社、早尾神社、産屋神社、宇佐若宮
下七社 樹下若宮、大宮竈殿社、二宮竈殿社、氏神神社、厳滝社、剣宮社、気比社
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