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神魂神社 [島根の神社]

神魂神社  (県社)  島根県松江市大庭町563
御祭神  伊弉冉尊
神魂(かもす)神社は伊弉冉尊を主祭神とし、通称大庭(おおば)の大宮さん。巨大な自然石を積み上げた石段といい古代出雲の神々の里らしいたたずまいを見せる。
本殿は現存する大社造の社殿のうち最も古いといわれ、国宝に指定されている。
その特徴は床が高いこと、前面と後方の中央にある柱(宇豆柱:うずばしら)がそれぞれ前と後へ張出していること。一見白木造りのようだが、往古は彩色されていたといわれ、屋根裏あたりにかすかに痕跡を留める。
近くの熊野大社、八重垣神社、六所神社などとともに意宇六社の一つに数えられ、何故か『延喜式』に記載されておらず、『出雲国風土記』にもない。出雲国造家とゆかりが深く、古くは国造家の私斎場的性格だったためかとも見られる。
本殿内陣には極彩色の壁画がある。なお本殿の屋根の前後を飾る千木(ちぎ)の先端が水平に切ってある(内そぎ)のは祭神が女神であることを示す。これに対し出雲大社や佐太神社など男神を主祭神とする神社では千木の先端が垂直に切ってある(外そぎ)。
本殿に向かって左手にある末社の貴布祢(きふね)・稲荷両神社の社殿は小規模だが、桃山時代の建築様式を伝える2間社流れづくりで、国の重要文化財。流れづくりそのものも出雲地方では珍しいが、普通流れづくりは前側の柱間が1間か3間の奇数であるのに対し、ここは2社を同時に収容するためか、異例の2間に仕切ってある。(しまね観光ナビHPより抜粋引用)
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佐太神社 [島根の神社]

佐太神社  (国幣小社・出雲国二宮)  島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
御祭神  佐太大神(猿田彦大神)
当社は出雲國風土記に「カンナビヤマの麓に座す」佐太大神社(さだおおかみのやしろ)或いは佐太御子社(さだみこのやしろ)と見え、延喜式には佐陁大社(九条家本)、また出雲國二宮と仰がれ、出雲國三大社の一つとして杵築(きずき=出雲大社)、熊野、鎌倉時代においても杵築、日御崎とともに「佐陀大社」と称えられた御社です。
中世には伊弉冉尊の陵墓である比婆山の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。盛時には神領7千貫・神職224人を有し、年間七十余度祭禮が行われていたと云いますが、太閤検地で領地を減じられ神職75人となったと云われています。
江戸時代を通じて出雲國10郡のうち佐陀触下(さだふれした)と呼ぶ秋鹿・島根・楯縫・意宇西半の3郡半の神社を支配下に置き、歴代藩主の信仰も厚く、出雲國内でも重要な地位を占めてきました。
明治3年、神社制度の改革が行われこの触下制度は廃止となります。51社あった末社もそれぞれが村々の氏神として独立し20ばかりとなり、神領、神職とも大幅に減じ著しく衰退しました。しかし、佐陀宮内の氏子はじめ神領6村の旧氏子、その他多くの崇敬者による復興運動により、昭和3年国幣小社に列せられました。
様々な歴史的困難にもかかわらず、本殿三社をはじめ、国・県の指定文化財も多数有し、古伝の祭祀を守り受け伝えている点において神道学、民俗学等の面からも注目を置かれているところであります。(佐太神社HPより抜粋引用)
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出雲大社 [島根の神社]

出雲大社  (官幣大社・出雲国一宮)  島根県出雲市大社町杵築東195
御祭神  大国主大神
大国主大神はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれました。それはすべてのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれました。『日本書紀』の記録によると、大国主大神はこの国づくりの大業が完成すると、日本民族の大親神である天照大御神に、その豊葦原の瑞穂国をお譲りされたとあります。天照大御神は大国主大神の私心のない「国譲り」にいたく感激され、大国主大神のために天日隅宮をおつくりになり、第二子である天穂日命を大国主大神に仕えさせられました。
この天日隅宮が今の出雲大社であり、天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し、出雲大社宮司の職に就いています。現在は第八十四代出雲国造千家尊祐宮司がその神統と道統を受け継がれています。
日本の神話を記した『古事記』『日本書紀』には、国譲り神話として出雲大社の創始にかかわる伝承を伝えていますが、神殿成立の記録上の上限としては、斉明天皇5年(659)に「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」として神殿を修したことがみえます。
950年頃(平安時代)の『口遊(くちずさみ)』という本によれば、本殿の高さは、東大寺の大仏殿の十五丈をこえる十六丈(約48メ-トル)にも達したといわれ、往時には、「天下無双の大廈(たいか)」と讃えられています。鎌倉時代頃から規模を縮小し、現在の本殿は、高さ八丈(約24メ-トル)で、延享元年(1744)に造営されたものです。
御本殿は、「大社造り」と呼ばれる様式で、日本最古の神社建築の様式を今に伝えています。御本殿の柱はすべて円柱で、現在は礎石の上に立っていますが、近世に至るまでは、根元を土中に埋めた掘立柱式でした。
殿内は、平面にすると、ちょうど「田」の字のようになっており、九本の柱によって支えられています。その中心には、心御柱とよぶ太い柱があり、正面と背面の中の柱を、宇豆柱と呼んでいます。心御柱と向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に御内殿があります。そこに大国主大神さまが鎮まっておられます。この御内殿は、正面に向かっておらず、横向き(西側)に向かって鎮座されています。屋根は桧皮葺で、棟には千木と勝男木三本とがのせてあります。(出雲大社HPより抜粋引用)
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須佐神社 [島根の神社]

須佐神社  (国幣小社)  島根県出雲市佐田町須佐730
御祭神  須佐之男命
出雲国風土記に見える須佐之男命の御終焉の地として御魂鎮めの霊地、又御名代としての霊跡地であり、大神奉祀の神社中 殊に深い縁を有する。須佐之男命の御本宮として古くより須佐大宮、天文年間には十三所大明神という。出雲の大宮と称え、農耕、殖産、興業、延壽の神として尊崇深厚あり、朝廷をはじめ累代国守、藩主、武将の崇敬は申すに及ばず、世人の尊敬あつく、社殿の造営は、武将、藩主によって行うのを例としてきた。明治五年郷社に、同六年県社に、同三十二年国幣小社に列せられ、第二次大戦の終戦後は別表神社として今日に至り、世人の尊宗あつい。
本殿は、大社造、方二間(四米余)、高さ七間(十二米余)
大社造とは、四方の柱の間に一本ずつの柱がある。即ち方二間で中央に真柱がある。中央と右中間の柱との間を壁でとじ、その奥を神座とする。向かって右方一間を入口とし階(きざはし)をつくる。この入口が右方に偏っていることは、他の神社や仏寺には全く例のないことで、神社と住宅が分離しない原始の建築を伝えている。屋根は切妻栩葺(きりつまとちぶき)で妻の方に入口がある。出雲大社と共に典型的な大社造りの建造物で島根県重要文化財として指定されている。(須佐神社HPより抜粋引用)
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日御碕神社 [島根の神社]

日御碕神社  (国幣小社)  島根県出雲市大社町日御碕455
御祭神  天照大神 素盞嶋尊
延喜式に「御崎社」、出雲国風土記に「美佐伎社」とある古社。赤い楼門をくぐると、正面に「日沉宮」、右手の石段上に「神の宮」があります。日沉宮には天照大神、神の宮には素盞嶋尊(すさのおのみこと)が祀られています。2社とも平入りの本殿が唐破風向拝(からはふうごはい)付きの拝殿と続いた権現造りです。
現在の建物は、徳川家光の命により、寛永14年(1637)藩主京極忠高が着手し、同21年(1644)藩主松平直政によって完成しました。桃山時代の面影を残す貴重な神社建築として、14棟一括重要文化財に指定されています。両本殿とも内壁や天井には、狩野派、土佐派の絵師たちが腕を競いあった壮麗な壁画があります。(出雲観光ガイドHPより抜粋引用)
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長浜神社 [島根の神社]

長浜神社  (県社)  島根県出雲市西園町上長浜4258
御祭神  八束水臣津野命
「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」の主人公である「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」を主祭神として祀っています。通称は妙見(みょうけん)さん。 
海のむこうの土地に綱をかけて引き寄せ大地を造られたご事跡により、綱引きの祖=スポーツ上達・不動産守護の神としてのご神徳が知られています。また、幸せや結婚、お金などのお願い事を引き寄せて下さる神様として、崇敬されています。
豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の際に百日祈願がありました。加藤清正や片桐且元、福島正則といった名だたる武将の参拝があり、その折の「弓掛の松」が境内にあります。緒戦の連戦連勝に太閤いたく喜び、桐の神紋をはじめ恩賞を授かっています。
この頃から「武道・スポーツ上達の守り神」のみならず「勝負に勝つ神」として広く信仰を集めるようになりました。人生に勝利すべく北斗七星をデザインした勝守を身につけ、試合・難関に挑む善男善女から広く支持されています。(出雲観光ガイドHPより抜粋引用)
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厳島神社 [広島の神社]

厳島神社  (官幣中社・安芸国一宮)  広島県廿日市市下平良一丁目11番1号
御祭神  宗像三女神
嚴島神社の創建は、推古元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられます。平安時代後期の仁安3年(1168年)には、佐伯景弘が嚴島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営。本殿以下37棟の本宮(内宮)と、対岸の地御前に19棟の外宮が設けられ、全て完成するまでに数年が費やされたといわれます。社運は平家一門の権勢が増大していくにつれ高まり、その名を世に広く知られるようになりました。
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になり荒廃した時期があったものの、弘治元年(1555年)、厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就が神社を支配下に置き庇護したことから、社運は再び上昇。天下統一を目前にした豊臣秀吉も参詣して武運長久を祈願しており、その年安国寺恵瓊に大経堂(千畳閣)建立を命じています。
嚴島神社は社殿が洲浜にあるため海水に浸る床柱は腐食しやすく、また永い歴史の間には幾度となく自然災害や火災に見舞われてきましたが、その度に島内外の人々の篤い信仰心に支えられて修理再建され、今日まで平安の昔さながらの荘厳華麗な姿を伝えています。(厳島神社HPより抜粋引用)
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御上神社 [滋賀の神社]

御上神社  (官幣中社)  滋賀県野洲市三上838
御祭神  天之御影命
御上神社の起源は、第七代孝霊天皇の六年六月十八日に御祭神天之御影神が三上山に降臨され、それから約千年の間、御上祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まる厳の磐境と定めて祀っており、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上祝がもちいつく天之御影神」と記されています。
奈良朝初期元正天皇の養老二年三月十五日(718年)に藤原不比等が勅命を拝し、榧木原と称された現在の鎮座地に造営して、御遷祀させられました。
以来朝野の尊崇極めて篤く、陽成天皇の御代(877年~884年)には正一位の神階を授けられ、併せて社殿の修営も行われました。次いで醍醐天皇(897年~930年)の延喜の制では、明神大社に列せられ月次・新嘗の官幣に預かり、更に円融天皇(969年~984年の)御代には当社を勅願所と定められました。
武家執政の世になっても、源頼朝を始め各武将も崇敬深く変わることなく、徳川幕府に至るまで、代々神領を寄進し、社殿の修営を行いました。
明治維新の神道復興の時運に際し、御社頭の整備が行われ、明治23年に本殿・拝殿・楼門が特別保護建造物に指定された機会に国庫補助を受けて解体修理の大事業が行われています。現在、本殿は国宝、拝殿・楼門は国の重要文化財に指定されています。
大正13年に県社から官幣中社に列格されています。(御上神社HPより抜粋引用)
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諏訪大社 [長野の神社]

諏訪大社  (官幣大社・信濃国一宮)
諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされています。
諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。
諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しています。古代の神社にも社殿がなかったとも言われており、諏訪大社はその古くからの姿を残しています。
諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神、また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れます。

上社本宮  御祭神 建御名方神  長野県諏訪市中洲宮山1
幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式。徳川家康が造営寄進したと言う四脚門など貴重な建造物が数多く残っており、六棟は国の重要文化財に指定されています。
JR中央線上諏訪駅から東南へ六キロ、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座しています。諏訪大社は、社殿の四隅に「おんばしら」と呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えています。
中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。また神体山を拝するという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されています。
境内のほぼ真中に東宝殿、西宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。本宮で最も大切な御社殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行われます。軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
本宮の昔の建物は極彩色が施されていましたが、天正十年(1582)に織田信長の兵火のため、山中に逃れた神輿の他はすべて焼失しました。この時まず仮殿が作られ順次再建され社殿は元和三年(1617)に完成しました。その後約二百年を経て諏訪藩主に依り社殿の改が計画され、立川和四郎二代目富昌が上社棟梁と共に事に当り、天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要し現在の社殿が落成し、立川流の代表的建築物と言われています。なお旧殿の拝殿は嘉永二年(1849)に郡内の富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、桃山時代の代表的建造物として重要文化財に指定されています。
本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。
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上社前宮  御祭神 八坂刀売神  長野県茅野市宮川2030
前宮御本殿は内御玉殿から200m程上段で、古くは神殿に附属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。現在の社殿は昭和七年伊勢の神宮の御用材を以て建てられたものです
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下社秋宮  御祭神 八坂刀売神 配祀 八重事代主神 長野県諏訪郡下諏訪町5828
JR中央線下諏訪駅の東北約1km、春宮からも東へほぼ1kmの地点で、旧中仙道と甲州街道の分岐点の要所に鎮座しています。鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木は根入の杉と呼ばれ樹令は約八百年の御神木です。
身長1.70m、青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従えた神楽殿は三方切妻造りで天保六年(1835)立川和四郎二代目富昌の作です。御社殿は神楽殿の奥で、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並びます。これ等の建物は江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されており、現在の建物は安永十年(1781)春に立川和四郎初代 富棟の棟梁で落成しました。
拝殿奥の神明造りの建物は宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、寅年と申年毎に左右の遷座祭を行います。当社の宝殿は上社、下社共に平素二殿並んでいます。室町時代の記録では新築後六年間雨風に晒し清めて御遷座をなし、直ちに旧殿を解体新築という形式だったようですが、いつしかこれが逆になり、祭典の直前に旧殿を建直して新殿に御遷座するようになりました。
宝殿の奥が御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所です。上社の神体山に対し下社は御神木を御神体として拝し、古代祭祀の形式を今に残しております。
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下社春宮  御祭神 八坂刀売神 配祀 八重事代主神 長野県諏訪郡下諏訪町193
JR中央本線下諏訪駅から北西へ約1km、秋宮から西へ1kmの位置で旧中仙道沿に鎮座します。上社へは諏訪湖を隔て約13kmです。
社頭から真直ぐ800m程伸びる道路は、かつて春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でした。途中の御手洗川に架る下馬橋は室町時代の建立ですが、建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修築されましたが、下社では最も古い建物で遷座祭の折に神輿はこの橋を渡ります。
入口の御影石の大鳥居は万治二年(1656)建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われます。
神楽殿と拝殿、左右片拝殿及御宝殿と続く建物の配置は秋宮と同じです。神楽殿は修改築が幾度となくなされています。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩に依って計画された時に同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますがその構造は全く同じで、春秋両社の建築は彫刻において技が競われています。春宮の社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後から着工して一年早く安永九年(1780)に竣工しました。
御宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造りと言います。下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。春宮は杉の木を、秋宮は一位の木を御神木として拝しています。
神楽殿の西の建物が筒粥殿、その西の清流は砥川です。川の中にある島は浮島と言い、どんな大水にも流れず下社七不思議の一つです。お社は浮島社と言い、清め祓いの神を祀り六月三十日の大祓式、夏越の祓いはここで行ないます。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられています。
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太宰府天満宮・竈門神社 [福岡の神社]

太宰府天満宮  (官幣中社)  福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
御祭神  菅原道真公
菅原道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになり、幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919)には醍醐天皇の勅命により立派なご社殿が時の左大臣藤原仲平によって建立されました。 この本殿は五間社流造で檜皮葺の屋根を備えた桃山時代の豪壮華麗な様式をよく伝えており、国の重要文化財に指定されています。
その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。(太宰府天満宮HPより抜粋引用)
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竈門神社  (官幣小社)  福岡県太宰府市内山883
御祭神  玉依姫命
天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰府政庁が置かれた際、鬼門にあたる竈門山(宝満山)では大宰府また国家鎮護のための祭祀がはじまりました。天武天皇二年(673年)には心蓮上人がこの山に籠って修行中に玉依姫命が現れ、朝廷によって上宮が建てられました。これが竈門神社の創建と言われています。延喜式には名神大社として記載されるなど格式が高い神社でした。
神体山の宝満山は、最澄や空海をはじめ、遣隋使や遣唐使など大陸へ渡る人々が航海の安全と、目標の達成のために登拝し、祈りを捧げた山として大切に守られてきました。中世以降は修験者による信仰が盛んになり、険しくも秀麗な宝満山の姿に多くの山伏が憧れ、厳しい修練を重ね、世の平安と人々の除災招福のための加持祈祷が行われました。
主祭神の玉依姫命は、魂(玉)と魂を引き寄せる・引き合わせる(依)という御神徳を慕われ、古くから「縁結びの神」として広く信仰されてきました。男女の「良縁」をはじめ、家族、友人、仕事、自然などとの良いご縁を結んでいただける神様として広く親しまれています。
また、竈門神社では、古くは、大宰府の鬼門除けとして、また、大陸へ渡る人々がこれから進む航海(道)の安全と事業の成功を祈願したことから「方除け」、「厄除」の信仰も盛んに行われてきました。現代においても、引越し、就職などの人生の節目を迎えた方々、あるいは仕事、事業において未来を切り拓こうと願う方々などが参拝に訪れ真摯な祈りが捧げられています。(竈門神社HP、御由緒より抜粋引用)
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