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諏訪大社 [長野の神社]

諏訪大社  (官幣大社・信濃国一宮)
諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされています。
諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。
諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しています。古代の神社にも社殿がなかったとも言われており、諏訪大社はその古くからの姿を残しています。
諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神、また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れます。

上社本宮  御祭神 建御名方神  長野県諏訪市中洲宮山1
幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式。徳川家康が造営寄進したと言う四脚門など貴重な建造物が数多く残っており、六棟は国の重要文化財に指定されています。
JR中央線上諏訪駅から東南へ六キロ、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座しています。諏訪大社は、社殿の四隅に「おんばしら」と呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えています。
中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。また神体山を拝するという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されています。
境内のほぼ真中に東宝殿、西宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。本宮で最も大切な御社殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行われます。軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
本宮の昔の建物は極彩色が施されていましたが、天正十年(1582)に織田信長の兵火のため、山中に逃れた神輿の他はすべて焼失しました。この時まず仮殿が作られ順次再建され社殿は元和三年(1617)に完成しました。その後約二百年を経て諏訪藩主に依り社殿の改が計画され、立川和四郎二代目富昌が上社棟梁と共に事に当り、天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要し現在の社殿が落成し、立川流の代表的建築物と言われています。なお旧殿の拝殿は嘉永二年(1849)に郡内の富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、桃山時代の代表的建造物として重要文化財に指定されています。
本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。
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上社前宮  御祭神 八坂刀売神  長野県茅野市宮川2030
前宮御本殿は内御玉殿から200m程上段で、古くは神殿に附属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。現在の社殿は昭和七年伊勢の神宮の御用材を以て建てられたものです
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下社秋宮  御祭神 八坂刀売神 配祀 八重事代主神 長野県諏訪郡下諏訪町5828
JR中央線下諏訪駅の東北約1km、春宮からも東へほぼ1kmの地点で、旧中仙道と甲州街道の分岐点の要所に鎮座しています。鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木は根入の杉と呼ばれ樹令は約八百年の御神木です。
身長1.70m、青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従えた神楽殿は三方切妻造りで天保六年(1835)立川和四郎二代目富昌の作です。御社殿は神楽殿の奥で、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並びます。これ等の建物は江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されており、現在の建物は安永十年(1781)春に立川和四郎初代 富棟の棟梁で落成しました。
拝殿奥の神明造りの建物は宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、寅年と申年毎に左右の遷座祭を行います。当社の宝殿は上社、下社共に平素二殿並んでいます。室町時代の記録では新築後六年間雨風に晒し清めて御遷座をなし、直ちに旧殿を解体新築という形式だったようですが、いつしかこれが逆になり、祭典の直前に旧殿を建直して新殿に御遷座するようになりました。
宝殿の奥が御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所です。上社の神体山に対し下社は御神木を御神体として拝し、古代祭祀の形式を今に残しております。
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下社春宮  御祭神 八坂刀売神 配祀 八重事代主神 長野県諏訪郡下諏訪町193
JR中央本線下諏訪駅から北西へ約1km、秋宮から西へ1kmの位置で旧中仙道沿に鎮座します。上社へは諏訪湖を隔て約13kmです。
社頭から真直ぐ800m程伸びる道路は、かつて春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でした。途中の御手洗川に架る下馬橋は室町時代の建立ですが、建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修築されましたが、下社では最も古い建物で遷座祭の折に神輿はこの橋を渡ります。
入口の御影石の大鳥居は万治二年(1656)建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われます。
神楽殿と拝殿、左右片拝殿及御宝殿と続く建物の配置は秋宮と同じです。神楽殿は修改築が幾度となくなされています。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩に依って計画された時に同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますがその構造は全く同じで、春秋両社の建築は彫刻において技が競われています。春宮の社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後から着工して一年早く安永九年(1780)に竣工しました。
御宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造りと言います。下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。春宮は杉の木を、秋宮は一位の木を御神木として拝しています。
神楽殿の西の建物が筒粥殿、その西の清流は砥川です。川の中にある島は浮島と言い、どんな大水にも流れず下社七不思議の一つです。お社は浮島社と言い、清め祓いの神を祀り六月三十日の大祓式、夏越の祓いはここで行ないます。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられています。
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生島足島神社 [長野の神社]

生島足島神社  (国幣中社)  長野県上田市下之郷中池
御祭神  生島大神 足島大神
生島足島神社の御祭神は、生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神です。摂社(下社・下宮)には諏訪大神も祀られています。
創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命が諏訪の地に下降する道すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献じられていたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。
生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。
当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神戸(封戸)の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901年~922年)には名神大社に列せられています。 建治年間(1275年~1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。 戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表しています。
殊に天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治2年、宮中にこの二柱の大神を親祭され、同23年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。(生島足島神社HPより抜粋引用)
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