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梅宮大社 [京都の神社]

梅宮大社 (官幣中社・二十二社)  京都市右京区梅津フケノ川町30
御祭神   本殿四座(大山祗神 瓊ヶ杵尊 彦火火出見尊 木花咲耶姫命)
      相殿四座(嵯峨天皇 仁明天皇 橘清友公 橘嘉智子)
梅宮大社は今から凡そ千三百年前、橘氏の祖・諸兄公の母、県犬養三千代が、橘氏一門の氏神として始めてお祀りした神社です。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄、すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられています。
その後、天平宝字年中、千二百五十年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂夫人の牟婁女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)によって現在の地に遷しまつられました。
醍醐天皇の御代に定められました延喜式では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭・月次祭・新嘗祭には朝廷からの幣帛を新饌台の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもってまつられることになりました。
更に日本中で特選された二十二の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられました。
御祭神の大山祗神は皇祖天照大神の御孫、瓊ヶ杵尊の皇后になられた木花咲耶姫命の父神で、瓊ヶ杵尊の国土経営の大業に大きな力添えをされた神です。また農業山林鉱産の守護神であり、航海の神としても古くから信仰されています。酒解神とも讃えられ、酒造の守護神としての尊崇も受けています。
瓊ヶ杵尊は天照大神の御意志を奉じて此の国土にお臨みになり、大いに開発に尽くされ国の創業を固められた神です。
彦火火出見尊は瓊ヶ杵尊の御子、神武天皇の御祖父君に当たります。
瓊ヶ杵尊と彦火火出見尊は大若子神・小若子神と称えられており、若子(ワクコ)は発酵を意味する名称であることから、大山祗神や木花咲耶姫命と同じく、酒解神としての御神徳があったと考えられます。
本殿四座すべてが酒造の守護神である梅宮神社は古来醸造の祖神とあがめられています。
木花咲耶姫命は瓊ヶ杵尊の皇后で、一夜で御懐妊の御子の疑いを晴らす為に無戸室の御産室に火を放ち燃えさかる中で彦火火出見尊を御安産になり、次々と御子を御安産になりました方で、子孫繁栄・授子安産の守護神として崇敬を受けています。(梅宮大社HPより抜粋引用)
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城南宮 [京都の神社]

城南宮   (府社)  京都市伏見区中島鳥羽離宮町7番地
御祭神   城南大神(国常立尊 八千矛神 息長帯日売尊)
延暦13年(西暦794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮のご創建と伝えられています。城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味です。
平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇によって、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点となると、城南宮は離宮の鎮守として一層崇められ、9月の城南祭では神輿行列に加え、流鏑馬や競馬も行われ大いに賑わいました。
2K㎡にも及ぶ離宮は政治・文化の中心となり、歌会や雅やかな宴や船遊びも行われ、王朝文化が花開きました。また城南離宮の御殿は、熊野詣の精進所や方違の宿所にも充てられ、上皇や貴族は方位の災厄から無事であるよう祈願されました。このように城南宮の方除(ほうよけ)の御神威は平安時代の昔より顕われています。
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は朝権を回復すべく城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募られ、鎌倉幕府との間に承久の乱が起こりました。
江戸時代には「大日本不易太大神宮」と尊称され、城南祭では、3基の神輿が氏子区域を巡行、周囲の村々に住む人の一番の楽しみになっていました。霊元法皇や和宮親子内親王の方除のご祈祷を奉仕し、孝明天皇には正五九月にご祈祷を修められ、この慣わしは「正五九参り」として今に続いています。
明治維新を決定づけた鳥羽伏見の戦いは、城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まったのであり、錦の御旗が翻って旧幕府軍に勝利すると薩摩の軍勢は城南宮の御加護によって勝利を得られた、と御礼参りに訪れました。
こうして1200年の歴史を重ねてきた城南宮は「方除の大社」と仰がれ、引越・工事・旅行の安全、厄除を願う全国の人々から、日々の暮らしの守り神と、篤く尊崇されています。(城南宮HPより抜粋引用)
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今宮神社 [京都の神社]

今宮神社  (府社)  京都府京都市北区紫野今宮町21
御祭神   中御座:大己貴命 東御座:事代主命 西御座:奇稲田姫命
当社地には平安建都以前より疫神(えきしん)を祀る社があったといわています。
建都ののち平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会が営まれました。今宮社の紫野御霊会もその一つです。
一条天皇の御代正暦五年(994年)六月、当社地の疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈りました。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源となっています。そしてこの時、京中の老若男女は挙って神輿に供をし、船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて歌い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれています。これが夜須礼(やすらい祭)です。
長保三年(1001年)ご霊夢によって疫神は船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇ともども今宮社と名づけられました。これが今宮神社の起源です。創祀以来朝野の崇敬を集め、とりわけ徳川綱吉公生母桂昌院の崇敬は西陣への愛郷の念とともに厚く、元禄七年(1694年)には荒廃していた社殿の造営など大いに務められ、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられています。
明治二十九年本社殿を焼失しましたが、同三十五年に再建し、その後も西陣をはじめ多くの人々の崇敬を集めています。(今宮神社HPより抜粋引用)
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御香宮神社 [京都の神社]

御香宮神社  (府社)  京都市伏見御香宮門前町
御祭神   神功皇后(日本第一安産守護大神)
創建年は不詳。日本第一安産守護之大神として広く崇められている神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神様が祀られています。初めは『御諸神社』と称していましたが、約1150年前の平安時代貞観四年(862年)九月九日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって『御香宮』の名を賜りました。
豊臣秀吉は天正十八年(1590年)、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、 やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じました。
その後、徳川家康は慶長十年(1605年)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じました。 慶応四年(1868年)正月、伏見鳥羽の戦には当社は官軍(薩摩藩)の屯所となりましたが幸いにして戦火は免れました。
御本殿は、慶長十年(1605年)、徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立されました。(本殿墨書銘による)大型の五間社流造で屋根は桧皮葺、正面の頭貫、木鼻や蟇股、向拝の手挟に彫刻を施し、全て極彩色で飾られていました。また背面の板面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵を描いています。全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和六十年五月十八日重要文化財として指定されました。
平成二年より着手された修理により約三百九十年ぶりに極彩色が復元されています。(御香宮神社HPより抜粋引用)
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長岡天満宮 [京都の神社]

長岡天満宮  (府社)  京都府長岡京市天神2丁目15-13
御祭神   菅原道真公
長岡天満宮の御鎮座地の長岡は、菅原道真公が御生前に在原業平らと共に、しばしば遊んで詩歌管弦を楽しまれた縁深いところです。公が太宰府へ左遷された時、この地にお立ち寄りになり「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、公御自作の木像をお祀りしたのが長岡天満宮の創立です。
以来、皇室の崇敬篤く度々の御寄進御造営をうけ、寛永15年(1638年)には八条宮智仁親王によって「八条が池」が築造されました。中堤両側に樹齢百数十年のきりしまつつじが多数植えられており、その見事さは我が国随一と言われ、花の季節には多くの観光客で賑わいます。
社地は昔10万余坪に亘っていましたが、明治維新の変革に際し上地のため、現在は2万余坪となっています。現在の御社殿(ご本殿、祝詞舎、透塀)は昭和16年に京都の平安神宮の御社殿を拝領移築したもので、正面朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築したもので、平成10年秋竣工しました。(長岡八幡宮HPより抜粋引用)
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平安神宮 [京都の神社]

平安神宮  (官幣大社)  京都市左京区岡崎西天王町
御祭神   桓武天皇  孝謙天皇
平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。
当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。
千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝えるために、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝えるために、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。
その後、皇紀2600年にあたる昭和15年には、市民の懇意によって平安京有終の天皇、第121代孝明天皇のご神霊が合わせ祀られ、「日本文化のふるさと京都」のおや神様として広く崇敬を集めることとなりました。
平安神宮のご社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が8分の5の規模で再現されています。大極殿(外拝殿)・応天門(神門)・蒼龍楼・白虎楼・歩廊・龍尾壇などは明治28年(1895年)の創建当時に造営されたものです。
その後昭和15年(西暦1940年)孝明天皇ご鎮座にあたり、本殿・祝詞殿・内拝殿・翼舎・神楽殿(儀式殿)・額殿・内外歩廊斎館(祭典の為参篭する館)・社務所などが増改築され、これまでの社殿も大修理が行われました。また、昭和50年からは主要な建物の屋根葺替が行われ、その間51年に社殿の一部が災禍に会いましたが、54年にはその復興もあわせて完成し現在のような壮麗なご社頭が整いました。(平安神宮HPより抜粋引用)
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大原野神社 [京都の神社]

大原野神社  (官幣中社・二十二社)  京都市西京区大原野南春日町1152
御祭神  建御賀豆智命 伊波比主命 天之子八根命 比賣大神
春日大社は平城京の東、古来より神山と崇められる御蓋山の西麓に神護景雲二年(768年)に鎮座し、政権を担う藤原氏にとってはまさに王城鎮護、国家鎮護の社でありました。
延暦三年(784年)桓武天皇の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神である春日大社の御祭神をこの地に祀られたことが大原野神社の始まりです。大原野神社は長岡京の西、小塩山の東麓に鎮座し、平安京遷都後も二十二社に列し国家鎮護の社とされました。
その後、約60年を経た 嘉祥三年(850年)に左大臣藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇は冬嗣長年の願望を想い出して、壮麗な社殿を造営されました。
仁寿元年(851年)始めて勅祭が行われ、春秋二季を例典とされました。
大原野神社の御本殿の第一殿には建御賀豆智命、第二殿には伊波比主命、第三殿には天之子八根命、第四殿には比賣大神が祀られ、摂社若宮社には天押雲根命を祀っています。古くから政治・方除・知恵の神として、また良縁を授けて下さる女性の守護神として信仰を集めています。(大原野神社HPより抜粋引用)
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松尾大社 [京都の神社]

松尾大社 (官幣大社・二十二社) 京都府京都市西京区嵐山宮町3
御祭神  大山咋神 市杵島姫命
太古の昔より、この地方の一帯に住んでいた住民が御祭神の大山咋神を松尾山の頂上に近い大杉谷の上部の磐座に祀って、尊崇していました。また、五、六世紀の頃、朝廷の招きにより、秦氏の大集団がこの地に来住し、松尾山の神を総氏神として仰ぐようになりました。秦氏は水路を作り農耕地の開発を進め、また、酒造を特技していたことから、その総氏神である大山咋神は農産業、土木工事の守り神、酒造神として崇められるようになりました。
平安時代には東の賀茂神社とともに皇城鎮護の社とされ、「賀茂の厳神」「松尾の猛霊」と並び称されました。
社殿の造営は文武天皇の大宝元年(701年)。秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、松尾山山麓の現在の地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をお招きしました。また、その娘の知満留女を斎女として奉仕させ、この子孫は明治まで松尾大社の神職を代々務めていました。
大山咋神は、大山に「杭(くい)」を打つ神、すなわち山の地主神であり、近江の日枝山と葛野の松尾の山に鎮座されていました。日枝山(現比叡山)を神奈備と仰ぐ日吉大社でも松尾大社と同じく御祭神として大山咋神を祀られています。また、賀茂別雷神社の御祭神である賀茂別雷大神は川上から流れてきた丹塗矢から産まれたとされていますが、この矢は大山咋神であったという説もあります。
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北野天満宮 [京都の神社]

北野天満宮 (官幣中社・二十二社) 京都市上京区馬喰町
祭神  菅原道真公
北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満天神」の神号が認められています。
現在、全国各地には道真公をおまつりした神社が、およそ1万2000社あるとも言われ、その多くは北野天満宮から御霊分けをした神社です。
北野天満宮のご祭神である菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真公は、昌泰2年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。道真公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められ、現代でも盛んな信仰へと展開します。また、「文道の大祖・風月の本主」と仰ぎ慕われ、学問の神さまとしての信仰は昔も今も変わることなく、人々の生活のなかで受け継がれています。
総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く社殿は、菅原道真公をおまつりする本殿と拝殿が石の間という石畳の廊下でつながり、本殿の西には脇殿を、拝殿の両脇には楽の間を備えた複雑な構造。八棟造、権現造りと称され、神社建築の歴史を伝える貴重な遺構として国宝に指定されています。
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貴船神社 [京都の神社]

貴船神社 (官幣大社・二十二社) 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180
祭神  高龗神(たかおかみのかみ)
御祭神の高龗神は、神生みにおいて伊邪那美命を火傷させ、死に追いやった火の神「加具土命(カグツチ)」を伊弉諾命が十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で切った時にその剣の柄からしたたる血から産まれた神と古事記には記載されています。また、日本書紀には火の神「加具土命(カグツチ)」の子とあります。
龗という字は龍蛇を指し、龍は雨を操る幻獣であることから、高龗神は水の神とされています。
弘仁9年、旱天が続いたことから嵯峨天皇が貴船神社に勅使を使わされ、雨乞いの祈願をおこなったという記載があります。以降、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬もしくは赤馬を貴船神社に献じて祈願するという慣わしとなりました。これが絵馬の起源と言われています。
また、天候のみではなく、疫病などが流行った時の厄除けなどにも貴船神社に勅使が遣わされるようになっていきました。
貴船神社の創建は定かではありませんが、社記には「太古、丑の年の丑の月の丑の日に天上より貴船山中腹の鏡岩に天降れり」とあります。また、反正天皇の時代(1600年前)に、玉依姫命が御出現になり、雨風を司り国土を潤わせ、民の祈願をかなえる為に我が船の止まる処に祠を立てよと言われ、黄色の船に乗って、淀川、鴨川と川をさかのぼられました。貴船川の上流(現在の奥宮の地)で清水の湧き出る神聖な場所を見つけ、そこに祠を立てたという話も伝わっています。
貴船という名称はこの「黄色の船」から取ったという説もありますが、貴船の名前の由来は、この地が「気」が龍の如く立ち昇る場所であり、「気」の生まれる嶺あるいは根元であることから、気生嶺、気生根(きふね)と呼ばれるようになったとも言われています。
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