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秩父三社(秩父神社・三峯神社・寶登山神社) [埼玉の神社]

秩父神社  (国幣小社)  埼玉県秩父市番場町1-3
御祭神  八意思兼命 知知夫彦命 天之御中主神 秩父宮雍人親王
秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。(秩父神社HPより抜粋引用)
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三峯神社  (県社)  埼玉県秩父市三峰298-1
御祭神  伊弉諾尊 伊弉册尊
三峯神社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊・伊弉册尊が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが三峯神社のはじまりです。
三峯山という名は、当山が三山高く美しく連なっていることから日本武尊が名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興など東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。
後柏原天皇の文亀二年(1503)に至り、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代です。
以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。(三峯神社HPより抜粋引用)
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寶登山神社  (県社)  埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828番地
御祭神  神日本磐余彦尊 大山祇神 火産霊神
寶登山神社の創立は西暦110年、今からおよそ1900年前、第12代景行天皇の御代とつたえられています。日本武尊が東国平定の折に寶登山に立ち寄り、泉でみそぎをおこない、頂上に登り始めました。すると、間もなく山火事がおこり、周りはあっという間に火の海と化しました。その時に何頭もの犬が現れ、身を挺して火を消し、さらに日本武尊を頂上に導かれたといいます。この犬達は山の神の使いで、日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名付け、神籬を立て、最初の天皇である神武天皇(神日本磐余彦尊)、山の神である大山祇神、火の神である御火産霊神の三柱を御祭神として祀られました。これが寶登山神社の創立です。(寶登山神社HP、しおりより抜粋引用)
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川越八幡宮・仙波東照宮・川越氷川神社 [埼玉の神社]

仙波東照宮    埼玉県川越市小仙波町1-21-1
御祭神   徳川家康公
仙波東照宮は、喜多院第27世住職天海僧正が徳川初代将軍家康公を祀ったものです。
家康公は、元和2年(1616)4月17日、75歳で薨去されると、いったんは静岡県の久能山に葬られましたが、家康公の遺言に従い、元和3年(1617)、2代将軍秀忠は亡父家康公の遺骸をあらためて日光に移葬しました。
その時、久能山から日光に至る道中、同年3月15日出発して、道中の各宿に泊りつぎ、同23日、仙波喜多院の大堂(薬師堂、のちに東照宮本地堂とも言いました)に到着しました。
それから4日間、衆憎を集めて、丁重な法要を厳修しました。
元和3年(1617)9月16日、天海僧正は家康公在世の渥恩に感謝の気持ちを伝えるため、また遺柩止留の跡として、家康公の像(高さ八寸八分)を作り、大堂に祀ったのが東照宮の初めです。
天海僧正は、この東照宮を広く多くの方に崇拝してもらうため、現在のこの地に高さ五間の丘陵を築きあげて立派な社殿を造り、寛永10年(1633)11月16日遷祀しました。
寛永15年(1638)1月28日、川越街に大火災が起こり、仙の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまいました。3代将軍徳川家光は、直接東照宮再建の計画を立て、同年3月、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年(1640)5月竣工しました。現在の社殿はこのときのものです。
漆塗りの極彩色の飾りが鮮やかな本殿・唐門・瑞垣・拝殿・幣殿・随身門・石鳥居と全てが重要文化財に指定されています。(仙波東照宮HPより抜粋引用)
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川越八幡宮    埼玉県川越市南通町19-1
御祭神   応神天皇
川越八幡宮は、第68代・後一条天皇の時代の長元3年(1030年)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられています。
長元元年(1028年)、下総国(千葉)の城主前上総介平忠常は朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従わせ、大軍を起こして武蔵国に攻め入りました。この乱は長元の乱と言われ、3年に渡り鎮圧できませんでした。有力武士だった冷泉院判官代甲斐守源頼信が長元3年に平忠常追討の倫旨を賜りました。
源頼信は当地で必勝祈願を行い、敵陣に斬り込んだところ、忠常の軍勢はたちまちに乱れました。そして三日三夜の間、追討してついに乱を平定しました。頼信は神様の御神威に深く感謝して、すぐに当地に八幡神社を創祀しました。これが当社の創建です。
長禄元年(1457年)、川越城が完成し、築城の名手だった太田道灌は当神社を篤く崇敬し、分霊を川越城内の守護神として奉斎しました。以来、川越の歴代城主、城代の崇敬が深く、特に天正18年(1590)以来の城主・酒井氏一族の崇敬はすこぶる篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次ぎました。
八幡神社は全国でもっとも多い神社で、分霊は約1万5000社もあります。九州の宇佐八幡宮、京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮が有名ですが、当社は総本社の宇佐から勧請されたと伝えられています。(川越八幡宮HPより抜粋引用)
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川越氷川神社  (県社)  埼玉県川越市宮下町2-11-3
御祭神   素盞嗚尊
川越氷川神社は今から約千五百年前、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。室町時代の長禄元年(1457年)、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。 また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってきました。
川越氷川神社には五柱の神々がおまつりされています。主祭神は素盞嗚尊。ほかに、脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)の夫婦神様。さらにその娘であり、素盞嗚尊の妃神でもある奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。そして、素盞嗚尊と奇稲田姫命のご子孫ともお子様ともいわれ、また出雲大社の縁結びの神様としても知られる大己貴命の五柱の神様です。
これらの神々はご家族であることから、川越氷川神社は「家族円満の神さま」、また、ご祭神に二組のご夫婦神様が含まれていることから、「夫婦円満・縁結びの神様」として信仰されています。
秋におこなわれる「川越まつり」は1600年代から今に続く川越氷川神社の例大祭で、ち密な細工で飾られた山車が町を練り歩き、大勢の観光客で賑わいます。この「川越氷川祭の山車行事」は国の重要無形文化財に指定されています。(川越氷川神社HPより抜粋引用)
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氷川神社 [埼玉の神社]

氷川神社 (官幣大社・武蔵国一宮) 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
御祭神  須佐之男命 稲田姫命 大己貴命
御祭神の須佐之男命は天照大御神と月読命とともに伊弉諾命から生まれた三貴子の一神で、八俣大蛇退治など力強く雄々しい神として知られています。大己貴命は葦原中国を造り、後に天つ神に国譲りをされた国土経営の神です。稲田姫命は須佐之男命の御妃で大己貴命の御母神です。この三柱が氷川神社の御祭神として祀られています。

氷川神社の創建は今から二千年以上前の第五代孝昭天皇時代と伝えられています。第十二代景行天皇の時代には、日本武尊が氷川神社に参拝し東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっています。今からおよそ千二百年前の聖武天皇の時代に武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の時代に制定された延喜式神名帳には名神大社に列せられています。また武家時代になっては、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いで当社を尊仰し、治承四年源頼朝公が土肥次郎実平に命じて社殿を再建、文禄五年八月には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行として社頭残らず造営し、寛文七年三月には阿部豊後守を奉行として社殿の建立をしています。
明治元年、明治天皇は都を東京に遷され、当社を武蔵国の鎮守勅祭の社と御定めになり氷川神社親祭の詔(祭政一致の詔)を賜りました。同年10月28日に明治天皇は当社に行幸、御自ら祭儀を執り行われました。明治4年5月14日に行幸、官幣大社に列せられています。(氷川神社HPより抜粋引用)
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鷲宮神社 [埼玉の神社]

鷲宮神社 (県社) 埼玉県久喜市鷲宮1-6-1
御祭神  天穂日命 武夷鳥命 大己貴命
鷲宮神社は、神代の昔、天穂日命とその御子武夷鳥命とが、当地に神崎神社(大己貴命)を祀り、さらに天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を立てて奉祀したのに始まります。
中世以降は関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く、藤原秀郷、源義家、源頼朝、北条時頼、上杉氏歴代、織田信長など有名な武将が幣帛の奉納や神領の寄進、社殿の造営などをおこなったと言われています。
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金鑚(かなさな)神社 [埼玉の神社]

金鑚神社 (官幣中社 武蔵二ノ宮) 埼玉県児玉郡神川町二ノ宮751
御祭神  天照大神 素戔嗚尊 (配神)日本武尊
金鑚(かなさな)神社の創建は、西暦100年頃、日本武尊が身に着けていた火をつける道具を御室ヶ嶽(神体山)に納めたことが始まりと言われいます。
本殿はなく、山そのものを神体山とする原始信仰の続く古社であり、このような形(拝殿のみで本殿を持たない)の神社は全国で長野の諏訪大社、奈良の大神神社の3社のみと言われています。
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