SSブログ
四国の神社(1) 埼玉の神社(5) 千葉の神社(1) 茨城の神社(2) 奈良の神社(7) 滋賀の神社(5) 大阪の神社(4) 京都の神社(17) 愛知の神社(3) 兵庫の神社(2) 三重の神社(1) 静岡の神社(5) 東北の神社(2) 群馬の神社(1) 福岡の神社(5) 岡山の神社(1) 東京の神社(7) 栃木の神社(3) 神奈川の神社(4) 北海道の神社(1) 山口の神社(1) 石川の神社(2) 富山の神社(1) 長野の神社(2) 広島の神社(1) 島根の神社(6)

秩父三社(秩父神社・三峯神社・寶登山神社) [埼玉の神社]

秩父神社  (国幣小社)  埼玉県秩父市番場町1-3
御祭神  八意思兼命 知知夫彦命 天之御中主神 秩父宮雍人親王
秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。(秩父神社HPより抜粋引用)
chi1.JPG
chi2.JPG
chi3.JPG
chi5.JPG
chi4.JPG
秩父神社.jpg

三峯神社  (県社)  埼玉県秩父市三峰298-1
御祭神  伊弉諾尊 伊弉册尊
三峯神社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊・伊弉册尊が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが三峯神社のはじまりです。
三峯山という名は、当山が三山高く美しく連なっていることから日本武尊が名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興など東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。
後柏原天皇の文亀二年(1503)に至り、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代です。
以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。(三峯神社HPより抜粋引用)
DSCN0858.JPG
DSCN0873.JPG
DSCN0884.JPG
DSCN0887.JPG
DSCN0892.JPG
三峯神社.jpg

寶登山神社  (県社)  埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828番地
御祭神  神日本磐余彦尊 大山祇神 火産霊神
寶登山神社の創立は西暦110年、今からおよそ1900年前、第12代景行天皇の御代とつたえられています。日本武尊が東国平定の折に寶登山に立ち寄り、泉でみそぎをおこない、頂上に登り始めました。すると、間もなく山火事がおこり、周りはあっという間に火の海と化しました。その時に何頭もの犬が現れ、身を挺して火を消し、さらに日本武尊を頂上に導かれたといいます。この犬達は山の神の使いで、日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名付け、神籬を立て、最初の天皇である神武天皇(神日本磐余彦尊)、山の神である大山祇神、火の神である御火産霊神の三柱を御祭神として祀られました。これが寶登山神社の創立です。(寶登山神社HP、しおりより抜粋引用)
DSCN3514.JPG
DSCN3518.JPG
DSCN3538.JPG
DSCN3547.JPG
DSCN3553.JPG
宝登山神社.jpg
宝登山神社奥宮.jpg

真清田神社 [愛知の神社]

真清田神社  (国幣中社)  愛知県一宮市真清田1丁目2番1号
御祭神  天火明命
真清田神社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。
この地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたため、真清田(ますみだ)と名付けられたといわれています。
真清田神社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。
尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが、市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市のみとなります。(真清田神社HPより抜粋引用)
DSCN3416.JPG
DSCN3422.JPG
DSCN3429.JPG
DSCN3446.JPG
DSCN3450.JPG
真清田神社.jpg

津島神社 [愛知の神社]

津島神社  (国幣小社)  愛知県津島市神明町1番地
御祭神  建速須佐之男命
津島神社は、創建時の社名は「津島社」でしたが、神仏習合の影響により、ご祭神を「牛頭天王」に改めたことにより江戸時代までは「津島牛頭天王社」となり、明治の神仏分離により「津島神社」に改められました。今でも「津島の天王さま」と呼ばれ、全国約3,000社の天王信仰の総本社となっています。
社伝によると、欽明天皇元年(540年)に西国対馬より大神がご来臨なられたのが始まりとされ、その後弘仁元年(810年)に神階正一位と日本総社の号を賜り、一条天皇の正暦年間に天王の号を賜りました。
御鎮座以来、貧富の差なく広く尊崇されており、特にこの地方の勇者「織田信長」「豊臣秀吉」や尾張徳川家には厚く信仰され、社領の寄進や社殿の造営等を受けています。(津島神社HPより抜粋引用)
DSCN3350.JPG
DSCN3357.JPG
DSCN3399.JPG
DSCN3383.JPG
DSCN3414.JPG
津島神社.jpg

生島足島神社 [長野の神社]

生島足島神社  (国幣中社)  長野県上田市下之郷中池
御祭神  生島大神 足島大神
生島足島神社の御祭神は、生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神です。摂社(下社・下宮)には諏訪大神も祀られています。
創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命が諏訪の地に下降する道すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献じられていたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。
生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。
当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神戸(封戸)の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901年~922年)には名神大社に列せられています。 建治年間(1275年~1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。 戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表しています。
殊に天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治2年、宮中にこの二柱の大神を親祭され、同23年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。(生島足島神社HPより抜粋引用)
DSCN3202.JPG
DSCN3211.JPG
DSCN3233.JPG
DSCN3232.JPG
DSCN3221.JPG
生島足島神社.jpg

氣多大社 [石川の神社]

氣多大社  (国幣大社・能登国一宮)  石川県羽咋市寺家町ク1-1
御祭神  大己貴命
天平十三年(七四一年)能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社(けたたいしゃ)でした。
気多大社が中央の文献に初めて見えるのは『万葉集』で、天平二十年(七四八年)、越中守大伴家持が出挙のため能登を巡行したとき、まず本社に参詣して、「之乎路(しをぢ)から直超え(ただこえ)来れば羽咋(はくい)の海朝凪ぎ(あさなぎ)したり船楫(かぢ)もがも」と詠んでいます。
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、神護景雲二年(七六八年)に封戸二十戸と田二町を寄せられ、しばしば奉幣を受けました。斉衡二年(八五五年)には神宮寺に常住僧が置かれ、神階も累進して貞観元年(八五九年)には正二位勲一等から従一位にのぼっています。延喜の制では名神大社に列して祈年の国幣にあずかっています。
「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、越後(居多神社(こたじんじゃ)と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社があります。日本海沿岸にひろく気多の神が祭られていたことを知ることができ、古代における気多大社の神威がしのばれます。
建保五年(一二一七年)将軍源実朝が公田として十一町余を寄進し、中世末期には、九百八十俵と五十六貫余の社領を有していました。能登の守護畠山氏の社領の寄進、社殿の造営などが見られます。摂社若宮神社(国指定重要文化財)は畠山氏の再建で、石川県の中世建造物として重視されています。
近世は、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、社領三百五十石を寄進するとともに、祈願、祈祷はもとよりしばしば社殿の造営をしました。本殿(大己貴命)、拝殿、神門、摂社若宮神社(事代主命)、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)は前田家の造営によるものです。
明治四年(一八七一年)に国幣中社、大正四年(一九七一年)には国幣大社となり、現在も北陸道屈指の大社として知られています。
加賀藩の保護した社叢(しゃそう)(国指定天然記念物)には奥宮(素戔嗚尊・櫛稲田姫命)が鎮座し、「入らずの森」(昭和五十八年五月二十二日、全国植樹祭に御来県の昭和天皇が本社に行幸された。入らずの森にお踏み入りになり御製をお詠みになりました。)と呼ばれる聖域となっています。(気多大社HPより抜粋引用)
DSCN3016.JPG
DSCN3035.JPG
DSCN3045.JPG
DSCN3051.JPG
DSCN3057.JPG
気多大社.jpg

射水神社 [富山の神社]

射水神社  (国幣中社・越中国一宮)  富山県高岡市古城1番1号(古城公園内)
御祭神  瓊瓊杵尊(二上神)
射水神社(いみずじんじゃ)の祭神「瓊瓊杵尊」は、伊勢神宮に祀られる天照大神の孫神様。「二上神」とも称され、稲作文化を日本全土に広めたという経緯から、五穀豊穰や商売繁栄の守り神として人々に崇敬されてきました。
社伝によれば、養老年間(714~723)、僧行基が二上山麓に建てた養老寺に、二上権現と称して祀ったのが二上神の鎮座といわれ、当時の領域は二上全山の22万坪余りにも達しました。その後、承平(931~938)、天正(1573~1592)の二度にわたる兵火で焼失しますが、慶長十五年(1610)、加賀藩主・前田利家公により復興。明治四年(1871)には、越中国で最も格式高い「国幣中社」に列せられます。同八年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折に類焼しましたが、同三十五年復興しました。遷座よりすでに百三十年以上がたち、名神大社の格式を今も守り続けています。(射水神社HPより抜粋引用)
DSCN3129.JPG
DSCN3132.JPG
DSCN3135.JPG
DSCN3137.JPG
射水神社.jpg

白山比咩神社 [石川の神社]

白山比咩神社  (国幣中社・加賀国一宮)  本宮 石川県白山市三宮町ニ105-1
御祭神   天白山比咩大神(=菊理媛尊) 伊弉諾尊 伊弉冉尊
崇神天皇七年(前91年)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わります。応神天皇二十八年(297年)には手取川の河畔「十八講河原」へ遷りましたが、氾濫のためしばしば社地が崩壊するので、霊亀二年(716年)に手取川沿いの「安久濤の森」に遷座しました。
文明十二年(1480年)の大火によって、40余りの堂塔伽藍がことごとく焼失し、末社三宮が鎮座していた現在地へ遷りました。
日本には、『古事記』や『日本書紀』といった奈良時代初期に完成した古い歴史書に見られる神々を祭神とする神社が数多く存在します。
全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮である白山比咩神社の祭神「白山比咩大神(=菊理媛尊)」も『日本書紀』に登場する女神のひとりです。
『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊と伊弉冉尊でした。この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。
黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神や月読尊、須佐之男尊が生れます。
白山比咩神社では、菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。(白山比咩神社HPより抜粋引用)
DSCN3109.JPG
DSCN3108.JPG
DSCN3077.JPG
DSCN3091.JPG
DSCN3096.JPG
白山比咩神社.jpg

伊豆山神社 [静岡の神社]

伊豆山神社   (国幣小社)  静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1
御祭神   天忍穂耳尊 拷幡千千姫尊 瓊瓊杵尊
伊豆山神社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されていませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝えられています。
社伝によると当社は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。十六代仁徳天皇が勅願所とされてから、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられています。
平冶の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで 驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に鎌倉、室町期を通じて、多数の社領を各地に所有していたことが南北朝時代の文章「寺領知行地注文」に記されています。
戦国時代には、小田原の北条氏(北条早雲、北条氏綱、北条氏康)により厚く庇護されていましたが、そのために豊臣秀吉の小田原征伐で一山残らず焼打ちにあい、焼失してしまいました。徳川の治下に及んで、焼失した伊豆大権現は再建復興され、文禄三年伊豆国葛見郡のうち二百石を寄進し、次いで慶長十四年関ヶ原の合戦で大勝を収めたお礼として更に百石、併せて三百石の朱印領を寄進しました。
昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出されています。(伊豆山神社HPより抜粋引用)
DSCN0824.JPG
DSCN0826.JPG
DSCN0836.JPG
DSCN0843.JPG
DSCN0841.JPG
伊豆山神社.jpg

関東三天神(湯島天満宮・亀戸天満宮・谷保天満宮) [東京の神社]

湯島天満宮   (府社)  東京都文京区湯島3-30-1
御祭神   天之手力雄命、菅原道真
湯島天神は 雄略天皇二年(458年)一月、天之手力雄命を奉斎し、勅命により創建されました。その後、正平十年(1355年)二月、郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀しました。文明十年(1478年)十月には、太田道灌が再建し、天正十八年(1590年)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進しました。
明治五年(1872年)十月には郷社に列し、ついで同十八年八月府社に昇格しました。
明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職にあたっていました。
社殿は、元禄十六年(1703年)の火災で全焼し、宝永元年(1704年)将軍綱吉公が金五百両を寄進しています。その後、明治十八年に改築されましたが、老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営されています。(湯島天満宮HPより抜粋引用)
yushima1.JPG
yushima2.JPG
yushima3.JPG
yushima4.JPG
yushima5.JPG
湯島天神.jpg
亀戸天満宮   (府社)  東京都江東区亀戸3丁目6番1号
御祭神   天満大神(菅原道真)、天善日命
正保三年(1646年)九州太宰府天満宮の神官であった菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩き、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々あった天神の小さなほこらにご神像をお祀りしました。
当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662年)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営みました。
古くはご本社にあたる九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていましたが、明治六年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和十一年に現在の亀戸天神社と正称されるようになりました。(亀戸天満宮HPより抜粋引用)
kameido1.JPG
kameido2.JPG
kameido3.JPG
kameido4.JPG
kameido5.JPG
亀戸天神.jpg
谷保天満宮   (府社)  東京都国立市谷保5209
御祭神   菅原道真公・菅原道武公
昌泰四年、右大臣菅原道真公が筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられました。
延喜三年、父君薨去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが谷保天満宮の起りとされています。
天暦元年、京都北野天満宮造営の際に、当社の威霊を奉上され村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられました。建治三年、後宇多天皇の勅により藤原経朝書「天満宮」の扁額を納められています。その後、道武公の裔孫津戸三郎為守は源頼朝に仕え数々の武功を立てますが、養和元年十一月三日旧来の地(現国立府中インター付近)より神殿を現在の地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、社務六院を置き祀典を司りました。
明治十八年には府社に昇格しています。
東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称されています。(谷保天満宮HPより抜粋引用)
yabo1.JPG
yabo2.JPG
yabo3.JPG
yabo4.JPG
yabo5.JPG
谷保天満宮.jpg

富岡八幡宮・大宮八幡宮・井草八幡宮 [東京の神社]

富岡八幡宮   (府社)  東京都江東区富岡1-20-3
御祭神   応神天皇(誉田別命) 外8柱
富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。
また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。(富岡八幡宮HPより抜粋引用)
tomigaoka1.JPG
tomigaoka2.JPG
tomigaoka3.JPG
tomigaoka4.JPG
tomigaoka5.JPG
tomigaoka6.JPG
富岡八幡宮.jpg
大宮八幡宮   (府社)  東京都杉並区大宮2-3-1
御祭神   応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053〜57)に、奥州に乱(前九年の役)が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起であります。
また、その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。
かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、昭和44年に境内の北端につづく旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡や族長の住居跡が発掘され、この地は太古からの聖域であったことが判明致しております。
今や大東京の重心「東京のへそ」として、神々の記憶と数々の日本の歴史へと誘う胎内回帰の出来る神秘的な場所とされております。(大宮八幡宮HPより抜粋引用)
oomiyahati1.jpg
oomiyahati2.JPG
oomiyahati3.JPG
oomiyahati4.JPG
oomiyahati5.JPG
大宮八幡宮jpg.jpg
井草八幡宮   (郷社)  東京都杉並区善福寺1丁目33-1
御祭神   八幡大神(応神天皇)
井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮とも称せられました。
善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。(現在は、二代目の松が植えられています)
源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められています。
明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修、境内の整備が行われ、都内でも有数の広さ(約一万坪)を誇り、現在は神社本庁別表神社に指定されています。(井草八幡宮HPより抜粋引用)
igusa1.JPG
igusa2.JPG
igusa3.JPG
igusa4.JPG
igusa5.JPG
井草八幡宮.jpg

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。